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「楽しい生き方」 最近、このブログで政治や経済、社会問題について書くことが減りました。それはなぜかというと、俺を悩ませるそういう問題がなくなったわけでも、そういうことに関心がなくなったからでもありません。むしろ、毎日のニュースが悲惨で、悲惨過ぎて、もう、どうにもこうにも、半ば絶望感にも似た心境でいるからです。俺は、以前、ブログ記事「人生の意味」の中で「儲けることの幸福よりも、愛することの幸福を」と書いたことがあるけど、どうも世の中は、依然として「儲ける喜び、儲ける幸せ」に盲進しているようです。これを資本主義、自由主義の合理と言ってしまえばそれまでですが、そして俺は社会主義者や共産主義者でもありませんし、それを扇動しているわけではありませんが、ただ、資本主義の、言ってしまえば、市場原理主義や新自由主義があまりに行き過ぎたために、世界の諸々で起こっている非人間的な事象が、世界をいっそう悲しく、未来を暗いものにしようとしている気がするんです。 今回、「可愛い暮らし」と題したのは、俺が常々、思っていることです。1回では書ききれないかもしれませんが、そうなれば、「可愛い暮らし」について何かを思ったり、思い出したりする、その度ごとに連載していくことにします。今回は、俺の部屋からの風景で感じたことから「楽しい生き方」を考えてみます。 さて、俺の部屋は5階にあって、南向きの窓の向こうには首都高速が走り、目の前の地上には保育園があります。俺は、この部屋に約2年前に引越してきて、一番最初に思ったことは、朝、保育園児たちの可愛いらしい無邪気な声で目覚めることができるということ、その楽しさです。俺は、たいていいつも窓を少し開けているので、日曜・祝日を除く日は、朝から園児たちの遊ぶ声が聞こえてきます。俺が誰かと電話で話していれば、その相手が「たくさんの子供の声が聞こえる」と言うほどに、子供たちの声は元気なものです(ブログ記事「用賀周辺の公園……」の末文参照)。 先日、ある友人にそんなことを話したところ、こんなことを聞きました。「幼稚園や保育園、あるいは小学校には、その周囲の住民から、子供たちの遊ぶ声、騒音に対する苦情が多く寄せられる」ということです。俺が、可愛らしいと感じている、園児たちの朝の無邪気な声が、人によれば、耐えることのできない、うるさい声にしか聞こえないということなのでしょう。夜勤の方や、夜のお仕事で、朝もまだ熟睡していたい方には、いくら子供たちの声といえども、それは不快なものとして聞こえてしまうのかもしれません。まぁ、これも、その人のライフスタイルによってはしょうがないことかもしれません。もちろん、これは程度の問題です。俺だって、あまりにうるさければ、そして俺が、朝までイライラしながら原稿を書いて、それでやっと寝ようと思った矢先のことであれば、何か嫌なものに感じることがあるかもしれません。否……、いくらそんな状況でも俺には、やっぱりないなぁ。無邪気に遊ぶ子供の声は、どんな時でも可愛らしく聞こえるだろうな。 清新な森の中で聞こえる小鳥たちの囁きにも似て、園児たちの遊ぶ声はコロコロと鈴音のように心地よく俺の心に響いてきます。朝、その声で目覚めるのは、本当に気持ちがいいんです。俺の部屋で寝起きしたことのある人なら、それを分かってもらえると思います……って、それは誰? そんな人がいるのだろうか?(笑) ※この部分は突っ込まないように。 また、さっきも書いたように、俺の部屋の前には首都高速があります。俺の部屋の5階と、それはほぼ同じ高さなので、窓からは車の往来が如実に見えます。でも、防音ガードのおかげで、それは騒音と言うには程遠く、夜でもただ「サーッ、サーッ」と滑るように走って行く車の音が、俺にはやっぱり心地よく聞こえます。リズムよく走っていく時など、それは浜辺の波音のようにも聞こえますし、ヘッドランプやテイルランプの光とも相まって、俺の部屋の夜の素敵な演出になります。愛猫アユもしばしば、その光景に見とれていて、哲学は都会の音と光によって刺激され、アユの思索は夜を徹して行われています。しかしながら、その音を、俺のように快適に思わない人も多くいるのではないでしょうか。これを騒音公害と考える人もいるでしょうし、そして毎日、毎夜、イライラとして過ごし、苦情を誰に言おうかと画策している人もいるかもしれません。これも程度問題ですが、俺には、こうした大半の音がとっても快適に、そして「生きる」ことを楽しくさせてくれるものにしか感じられないんです。 昨今、チューリップの花をむやみに切り落としてしまう人のことがメディアによって伝えられていますが、きっとそうしてしまう人には綺麗で可愛いチューリップの花さえも、イライラする対象物としか映らないのでしょう。少し前の記事で、砧公園に咲いたチューリップの写真を載せましたが(ブログ記事「咲いたよ、赤いチューリップ」参照)、息を飲む美しさに俺は感激もするし、そして、そのそばでひっそりと咲くタンポポにも同様に愛情が向いてしまいます。また、園児たちの声も、首都高速を走る車の音も、「そう思ったほうが暮らしやすい」と思って、その音を無理矢理に快適な音として自分に思い込ませているわけではありません。子供たちの声は子供たちの声だし、車の音は車の音だし、それをあるがままに感じて、そしてそこに俺の毎日の暮らしの気持ちが重なっていくんです。だから、もしかすると、こうした音だけではなく、人間関係でも仕事でも、あるいは恋愛でも、不快に思ってしまうことのいくつかは、それを受け取る自分側の心に問題がある場合があるのかもしれません。有名な例え話に次のようなものがあります。 昔、ある母親に2人の息子がいました。長男は傘屋を始め、次男は下駄屋を始めました。天気になると傘が売れないので長男が可哀想だ。雨が降ると下駄が売れないので次男が可哀想だと思っていました。それで、母親は天気になると長男を思って泣き、雨が降っては次男を思って泣き暮らしていました。でもある日、母親は気づきました。天気になれば下駄が売れる、雨が降れば傘が売れるということに。それから、母親は天気になったら喜び、雨が降っても喜び、毎日毎日ニコニコ笑って生きたそうです。 なんだか、説教じみたような訓話になってしまいましたが、そして、すべては気の持ちようということでもないんですが、俺には、世界、人間、自然、そして自分のすべてをあるがままに受け入れて、そこに自分の暮らしを素直に重ねていくことが大切に思えてなりません。園児たちの声は園児たちの声ですが、その声をいつまでも可愛らしく感じて、気持ちよく朝を迎えていたいと思います。人生には雨の日もありますが、雨の日のお洒落なファッションを考えたり、雨音のような素敵なピアノ曲を聴いたり、身体が冷えれば温かいスープやコーヒーを飲んだりして、雨さえも楽しんでしまえばいいんです。映画『雨に唄えば』のジーン・ケリーが雨の中、傘を持って唄い踊るあの有名な場面は、雨に濡れながらも恋する喜びに満ち溢れた珠玉の名シーンでしょう。 俺にも雨が降る、あなたにも雨が降る、でもそれはいつかはきっと晴れる。雨の中、子供たちは赤や黄色の傘をさして小さな長靴を履いて走り回ります。晴れた日も雨の日も、そして雪の日も、楽しく生きるためには、たぶん、たぶんですが、「儲ける喜びよりも愛する喜び」のほうが役に立つ気がします。お金儲けをして、大きな家や最新の車を手に入れることを否定しているわけではありません。それさえも楽しむ心が必要だと思うのです。世界を思う、自然を思う、人間を思う、動物を思う、深い愛情です。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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katsuraさん、覚えてますか? |
パオクン 2008/04/27 20:18 |
いい記事ですね!(って、私は誰だ!?って感じですけど・・。)子供はすごいです。泣きたいときは泣いて、楽しければ笑って、大きな声を出したい時は騒いで。自分の思ったままに行動する。これが人間の基本だと思います。そこに、大人になるに連れて、自分以外の他者への思いやりや、Katsuraさんの好きな言葉「愛情」が加わるだけでいいのに・・・。 |
Akki 2008/04/28 12:54 |
かっちゃん、お久しぶりですみません…。とてものどかでいいねぇ〜^^w |
愛美 2008/04/28 23:57 |
良いお話を聞かせていただきました^^ |
パーシモン 2008/04/29 14:58 |
雨はいつかは晴れる。 |
とも 2008/05/01 00:14 |
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