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「別れと出会い、そして桜」 3月は別れ、4月は出会いの季節ですね。出会いがあればいつか別れがあるし、始まりがあれば終わりがある。俺たちは、生を持つと同時に死を持っています。そんなことは、すごく分かっているんだけど、やっぱり別れや終わりというものは、辛く悲しいものです。 卒業、人事異動、引っ越し、年度末での仕事の打ち切り……、特に未曾有の経済不況と言われている昨今、希望のない終わりには絶望さえ感じますが、でもいつか季節は巡り、出会いもあれば、始まりもきっとあると思います。そのために今は、ただ風に吹かれる雑草のように、左右に吹かれるまま、なんとか倒れずに身体を任せるしかありません。「疾風に勁草を知る」とは、最近知った言葉ですが、こんな時こそ、強くしなやかに生きたいものです。 仕事も住居もなくし、明日の食事さえままならない方もいると思いますが、決して1人で悩まず、誰かに相談でも愚痴でも言うことです。そしてそれを聞く側としては、それを自己責任と非難するのではなくて、ひとりの大切な人間の人生の大問題としてとらえてあげてください。 思えば今から30年以上前の3月、故郷の福岡から東京に出てきた時、当時、福岡で付き合っていた彼女との別れも同時期に起こりました。もちろん離れ離れになることが大きな原因でした。で、たぶん、俺は福岡から東京まで新幹線で来たと思うんだけど、静岡を過ぎたあたりから車窓に桜が見えだして、その春めいた、あまりに美しい景色が胸をしめつけました。大好きだった彼女との別れ、これから始まる東京でのひとり暮らし、切なさと不安と期待と、そんなものがごちゃごちゃになって俺の中にありました。 その彼女とは別れてから1年後くらいに、一時期、復活もしましたが、携帯もパソコンもなかった時代、当然メールなんてものもないし、遠距離恋愛はやはりその距離と、高額な電話代に負けていきました。 別れと出会い、そして桜……、この季節は常にドラマチックだし、だから音楽の題材にも頻繁に取り上げられています。また、それを象徴するように「桜」をモチーフにした楽曲は、近年、とっても多いように感じます。俺にしたって、今年の桜をどんな思いで、誰と見るのか……。桜は毎年、必ず咲きます。 最後に、俺の好きな作家、池田晶子さんの著作「暮らしの哲学」から、ある一節を紹介します。 人生は過ぎ去って還らないけれども、春は、繰り返し巡り来る。一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環性を見るからだ。それは魂が故郷へ帰ることを希うような、たぶんそういう憧れに近いのだ。 始まりを繰り返すことの痛みは、終わりへ向かうことへの痛みでもあるだろう。花は儚いと人は言う、自分の人生がそうであるようにと。 しかし、儚さは、儚いままやはり巡っている。永遠的なものを知ることにおいて、人は、自分を自分と思うことの不可能と無意味さを知るだろう。過去が私の人生から過ぎ去って還らないなら、私の人生の全体は、何に対して過ぎ去ったのか。 「暮らしの哲学」(池田晶子著/毎日新聞社)より |
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ご無沙汰していました。お元気なようで一安心です。 |
カンチャン 2009/03/21 23:13 |
↓カンチャン |
Katsura 2009/03/30 03:45 |
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